中学時代に先生から「さくら」という歌を聞かせてもらったことがある。それは桜という花の美しさを表した歌だと先生は言っていた。しかし、中学生の私にとって、その歌はどうしても悲しいように聞こえた。どうして日本の人はこんな悲しいメロディーで花の姿を表さなければならないのか、私はずっと分からなかった。 日本語を勉強してから、桜は日本人が最も好んでいる、最も賛美している花だということを知った。初めて桜の散るのを見た時、何と美しい情景だろうと思ったが、それとともになぜか悲しい感じを味わった。薄いピンク色の花びらが風の流れの中で踊っているように見えた。 その瞬間、急に「さくら」の歌を思い出した。その歌の中の哀愁がなんとなく分かったような気がしてきた。 それは日本人の美意識に対する、私の最初の体験であった。
美しいものに対して、中国の人はたぶんそれを賛美し、単純に楽しむのが普通である。それに対して、ほとんどの日本人はそれを楽しみながら、それが常ではない、長く続かないと思っているのだろう。一言で言えば、日本人の美意識には日本人がいつでも持っている無常観がある。そのため、日本人の目に映る美は、他国の人から見れば常に矛盾があるように見える。 鴨長明が「方丈記」に書いているように、この世のすべてのことは水の流れのように「久しくとどまりたるためしなし」。無常観は元々仏教からのものであるけれども、インドや中国では日本のように、人々の考えの隅々まで深く影響したことはたぶんないと思う。
そのような無常観は吉田兼好にいたっては、ただの無常観ではなくなっている。兼好法師は「徒然草」を通じて、当時の人々に「末世であっても、楽しもうよ」と声をかけたのである。 そのような無常観の文学の中での発展から、日本人の矛盾のある美意識をちょっぴり覗くことができるだろう。日本人は美しいものに対して、楽しみながら悲しみ、悲しみながら楽しんでいるのである。
さらに、日本人が美しく思ったものには必ず矛盾する美が含まれなければならないようだ。たとえば、日本人にとって満月は無論美しく思われているけれども、俳句の中でより多く歌われているのはやはり雲でちょっと覆われた月や、雨の日に想像された月のことである。日本の人には、完璧な美しさよりは、少しだけ残念な気持ちを与える不完全な美しさのほうがより理想的な美なのである。
私は東京に来たばかりのころ、日本人の服装に深い関心を持っていた。国内にいたころ、日本の人が最も自分を美しく飾ることが上手だという印象を持っていたからである。しかし、日本に来て、面白いことを発見した。確かに日本の人々の服装は中国の人のそれより美しく見えると思う。しかし、その美しさは服装の素材にあるのでもなく、様式でもない。それは服装の色と色との組み合わせにある。
日本では黒い服を着ている人が中国よりずっと多いと思う。日本人の服の色は人に落ち着いた感じを与える色がほとんどである。その落ち着いた色の上に必ず何か対照的な鮮明な色を少しだけ組み合わせているのである。もちろん、例外はあるが、ほとんどはそのようである。つまり、あまり目立たないのに美しく見せるのが日本人の日常生活の中の美意識と言えるようだ。
先生が授業で言った「いき」もそのような美的概念なのであろう。単純な美の問題から言えば、「いき」には必ず媚態が必要である。渋くて素朴な服装が女の媚態とちょうどよい、矛盾のある関係を形成しているようである。おそらく、媚態は「いき」の第一の要素であり、媚態がなければ、「いき」も成立し得ないだろう。 (冬・文章表現Ⅲ)
資料:大久保喬樹『日本文化論の系譜 「武士道」から「『甘え』の構造」まで』(中公新書), 九鬼周造『「いき」の構造』(岩波文庫)より
中学時代に先生から「さくら」という歌を聞かせてもらったことがある。それは桜という花の美しさを表した歌だと先生は言っていた。しかし、中学生の私にとって、その歌はどうしても悲しいように聞こえた。どうして日本の人はこんな悲しいメロディーで花の姿を表さなければならないのか、私はずっと分からなかった。 日本語を勉強してから、桜は日本人が最も好んでいる、最も賛美している花だということを知った。初めて桜の散るのを見た時、何と美しい情景だろうと思ったが、それとともになぜか悲しい感じを味わった。薄いピンク色の花びらが風の流れの中で踊っているように見えた。 その瞬間、急に「さくら」の歌を思い出した。その歌の中の哀愁がなんとなく分かったような気がしてきた。 それは日本人の美意識に対する、私の最初の体験であった。
美しいものに対して、中国の人はたぶんそれを賛美し、単純に楽しむのが普通である。それに対して、ほとんどの日本人はそれを楽しみながら、それが常ではない、長く続かないと思っているのだろう。一言で言えば、日本人の美意識には日本人がいつでも持っている無常観がある。そのため、日本人の目に映る美は、他国の人から見れば常に矛盾があるように見える。 鴨長明が「方丈記」に書いているように、この世のすべてのことは水の流れのように「久しくとどまりたるためしなし」。無常観は元々仏教からのものであるけれども、インドや中国では日本のように、人々の考えの隅々まで深く影響したことはたぶんないと思う。
そのような無常観は吉田兼好にいたっては、ただの無常観ではなくなっている。兼好法師は「徒然草」を通じて、当時の人々に「末世であっても、楽しもうよ」と声をかけたのである。 そのような無常観の文学の中での発展から、日本人の矛盾のある美意識をちょっぴり覗くことができるだろう。日本人は美しいものに対して、楽しみながら悲しみ、悲しみながら楽しんでいるのである。
さらに、日本人が美しく思ったものには必ず矛盾する美が含まれなければならないようだ。たとえば、日本人にとって満月は無論美しく思われているけれども、俳句の中でより多く歌われているのはやはり雲でちょっと覆われた月や、雨の日に想像された月のことである。日本の人には、完璧な美しさよりは、少しだけ残念な気持ちを与える不完全な美しさのほうがより理想的な美なのである。
私は東京に来たばかりのころ、日本人の服装に深い関心を持っていた。国内にいたころ、日本の人が最も自分を美しく飾ることが上手だという印象を持っていたからである。しかし、日本に来て、面白いことを発見した。確かに日本の人々の服装は中国の人のそれより美しく見えると思う。しかし、その美しさは服装の素材にあるのでもなく、様式でもない。それは服装の色と色との組み合わせにある。
日本では黒い服を着ている人が中国よりずっと多いと思う。日本人の服の色は人に落ち着いた感じを与える色がほとんどである。その落ち着いた色の上に必ず何か対照的な鮮明な色を少しだけ組み合わせているのである。もちろん、例外はあるが、ほとんどはそのようである。つまり、あまり目立たないのに美しく見せるのが日本人の日常生活の中の美意識と言えるようだ。
先生が授業で言った「いき」もそのような美的概念なのであろう。単純な美の問題から言えば、「いき」には必ず媚態が必要である。渋くて素朴な服装が女の媚態とちょうどよい、矛盾のある関係を形成しているようである。おそらく、媚態は「いき」の第一の要素であり、媚態がなければ、「いき」も成立し得ないだろう。 (冬・文章表現Ⅲ)
資料:大久保喬樹『日本文化論の系譜 「武士道」から「『甘え』の構造」まで』(中公新書), 九鬼周造『「いき」の構造』(岩波文庫)より